2021年3月30日火曜日

礼拝メッセージ 2021年3月28日
説教題 「主イエス様のとりなし」
  書  ルカによる福音書23章32~38節
(序論)今週は、受難週です。イエス様の十字架上の言葉に耳を傾け、み言葉に聞きたいと思います。
(本論)今日の箇所には、様々な人間が出てきます。イエス様を殺したくて、それが実現して、勝ち誇った態度を取る権力者たち、彼らは「他人は救った、もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」そう十字架上の、イエス様をあざけります。権力者に扇動されて「十字架につけろ」と叫んだ民衆は、ゴルゴダまでの道、ビアドロローサ、苦難の道、悲しみの道といわれるところを、歩まれるイエス様に対して、残酷な野次馬となって侮蔑しました。そして、嘆き悲しむ婦人たち、イエス様に代わって、十字架を担がされる羽目になったクレネ人のシモン、ユダヤ人と同様にイエス様をあざける兵士、イエス様と一緒に十字架にかけられる犯罪者たち、などがいます。そして今日の場面には、出てきませんが、恐れて逃げて隠れている、弟子たちもいます。
1)私たちは知らなかった  ところで、愚かなことをしているとき、本人は自分の愚かさに、気づかないということが、往々にしてあります。他の人から見たら、あんなことをしてと、心配されるようなことでも、本人はその時は、気が付かない、そんなことがあります。自分が失敗をしたり、痛い目をしたあと、ようやくその愚かさに気づきます。しかし、だいたいのことは、やり直しがききます。やり直して「あの頃は、ばかなことしていたなあ」と、あとから思い出すことができます。かつての愚かさから人生の知恵を重ねて行くことで失敗を防ぐことができます。
2)恵みに生かされる  私たちは、神様を殺すという、取り返しのつかない、ことをしたにも関わらず、恵みのうちに生かされているのです。主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいのです。」という言葉のゆえに、恵みのうちに生かされています。本来、取り返しのつかないことが、取り返せるように、イエス様は言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。神様を殺した私たちが、イエス様の父なる神様への、とりなしの祈りのゆえに、そして、イエス様が、十字架で神の怒りを受けてくださったゆえに、赦されました。そして恵みを受ける者とされました。
(結論)主イエス様の、とりなしのうちに生かされる
 私たちは、今も主イエス・キリストの、とりなしの祈りのゆえに、生かされています。私たちが、罪と知って犯す罪も、知らずに犯す罪も、イエス様は、とりなしてくださっています。イエス様のとりなしのゆえに、取り返しのつかないことはなくなったのです。
私たちは、いつでもやり直すことが出来ます。繰り返し失敗しても、繰り返し信仰が揺らいでも、私たちは立ち上がって、やり直すことができます。神様の恵みを知らなかった私たちは、絶えることのない神様の恵みを、受けることができます。

2021年3月21日日曜日

礼拝メッセージ 2021年3月21日
説教題 「いのちの道・祝福の道」
  書  マタイによる福音書26章36~39節
(序論)イエス様は、ゲッセマネに入って行かれて、弟子達の中から、ペテロとゼベダイの子、すなわちヤコブとヨハネの三人を連れて、園の奥に入って行かれました。
(本論)その時、突然主は「悲しみもだえ始められた」とあります。しかも「私は悲しみのあまり死ぬほどだ」と言われました。今まで気丈に弟子たちに福音を教えられ、多くの奇跡を行いながら、ここに来て急に悲しみ悩み始められました。しかも三人の弟子の前で。一体何が起こったのでしょうか。
1)神の思いに自分の思いを従わせる  イエス様はこう祈られました。「わが父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの思いのままにではなく、御心のままになさって下さい」と。この神の怒りの杯を、自分が身代わりに受けなければならいと言うことです。本来ならば罪人の私たちである人間が、受けなければならない、神の罰です。それを御自分が、受けなければならないと言うことの厳しさです。たとえそれが自分の使命だとしても、できればその苦しみの杯を飲まなくてもいい道を示して下さいと祈られました。この苦しみと孤独を経験しなくてもいいようにして下さいと願われたのです。
「御心のままに」という祈りは、この杯を受けますと言うことです。自分の思い、自分の願い、自分の願望ではなく、神様の御心のみが、なりますようにという祈りです。自分を委ね、神に明け渡す道です。たとえその道が苦しみと悲しみの道であっても、必ず神様はプラスにして下さると信じて踏み出す道です。なにがあろうとも、苦しみ、攻め、重荷、犠牲があっても、神様が望むのでしたら、その道を取りますと言うことです。逃げるのは致しませんと言うことです。この苦しみの杯を遠ざけてください、と言う願いではなく、その苦しみの中に、その苦しみを通してさえも、主はその先に、光と希望の道を備えて下さると信じる事ではないでしょうか。
 
2)祈りは、大胆に立ち向かう力  それから、弟子たちのところへ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペテロに言われた。「あなたがたは、わずか一時もわたしと一緒に目を覚ましておられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱い。」 彼らは、わずか一時も目を覚ましていられませんでした。と言うことは、おそらくすぐに寝込んでしまって、イエス様が祈っておられる間中彼らは、ぐっすりと寝ていたと言うことです。誘惑に負けてしまっていました。しかも三回もイエス様が戻って来て起こしたにもかかわらず、三回とも眠ってしまっていたのです。何ともふがいのない弟子たちでした。「心は燃えていても肉体は弱い」とありますので、信仰はありました。ところが肉の力が強くても、心の方が負けてしまうのです。
(結論)しかしイエス様は、ご自分を捕らえに来る人々を堂々と迎えられます。祈りは試みに対して、大胆に立ち向かう力を与えます。

2021年3月14日日曜日

礼拝メッセージ 2021年3月14日
説教題 「祈り・平安・希望・確信」
  書  ヨハネの第一の手紙5章14~15節
(序論)祈ることは、本当は楽しいことです。しかし、それは決して楽なことではありません。祈りの必要性は分かっていても、なかなか祈りの時間は、持てないのが事実です。しかし、キリスト者を造るものは、祈りです。
(本論)私たちが、信仰生活を続ける上で、よく受ける攻撃は、祈りに関することです。すなわち、「祈ったって無駄だ、何の意味もない」ということです。悪魔はあなたの耳元で、こうつぶやくでしょう。
1)何事でも  ところで、ここには「何事でも」とあります。私たちは祈るとき、「こんなことを祈っても大丈夫だろうか」とか、「まさかこんなことは聞いてくださらないだろう」と思い、祈ることを躊躇してしまうことがありますが、ここには「何事も」とありますから、何事でも祈ることが大切です。ヤコブは、「あなたがたの、ものにならないのは、あなたがたが、願わないからです。」(ヤコブ4:2)と言いました。私たちは、自分で何とかしようとして、神様に祈らないことが多いのです。 しかし、何事でも神のみ心にしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、神に対する私たちの確信なのです。
しかし、ここには一つだけ条件があげられています。それは「神のみ心にしたがって願うなら」ということです。「ほらみなさい。やっぱり無理じゃないですか。だって、神のみ心にしたがって願うならと言われても、神のみ心が何だか、さっぱり分かりません。」神のみ心だと思って祈っていても、結局のところ、自分の思いで祈っているということが結構ありますから。「神のみ心にしたがって願うなんて無理ですよ。」と、考えます。ですから、祈らなければならないのです。そのようにして祈るなら、少しずつ神のみ心が分かってくるからです。
 
2)最善の結果  15節。ここには、「私たちが願うことは、何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに、手にしていると分かります。」とあります。どういうことですか? 私たちが願うことは何でも神様が聞いてくださると、いうことが分かるなら、それはもう叶えられている、ということです。もちろん、これは私たちの要求が、何でもその通りになるということではありません。そうではなく、神に願ったら、神は最善の結果に、導いてくださる、ということが分かるので、安心して結果を、ゆだねることが出来るという意味です。
(結論)ヤコブは「疑わずに、信じて願いなさい」(ヤコブ1:6)と言っていますが、これも神様との信頼関係を示しています。神様は私たちの父です。父であれば自分の子どものことを愛していて、子どもが必要としているものを与えてくれます。でも有害なものは与えません。良いものしか与えないわけです。私たちがその良いものを神様に求めるなら、その求めたことは何でも、神様は与えてくださいます。

2021年3月7日日曜日

礼拝メッセージ 2021年3月7日
説教題 「時機を得た助け」
  書  ヘブル人への手紙4章14~16節
(序論)今日のみ言葉の「大祭司」というのは、私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、ユダヤ人たちには、よく知られた名称でした。それは、神様と人を結びつける働きをする人のことで、神様との仲介者のことです。
 
(本論)イエス様は、私たちの罪の贖いを成し遂げて、神の右の座に着き、そこで私たちのために、とりなしていてくださいます。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなして、いてくださます。」(ローマ834
1)弱さを思いやる方  「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(改訳)。 ここには、私たちの大祭司についてもう一つのことが言われています。それは、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。私たちが苦しむとき、その苦しみを十分に理解し、同情することがおできになられます。それはもう他人事ではありません。自分の痛み、自分の苦しみ、自分の悲しみとして、共に負ってくださるのです。
 聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。彼は、旅の途中、強盗に襲われ死にそうになっていた人を見ると、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋につれて行き、介抱してやりました。次の日、彼はデナリ硬貨を二つ取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
このサマリや人はなぜこのようなことができたのでしょうか。それは、この傷つき、苦しんでいた人の隣人になったからです。彼は傷つき、苦しんでいた人を見たとき、とても他人事には思えませんでした。それを自分のことのように感じたのです。だから彼はそのような行動をとることができたのです。それはイエス様も同じです。
2)時機を得た助け  旧約聖書の時代には、だれもが神に近づけるというわけではありませんでした。近づくことが出来ないお方です。 神に近づこうものならば、たちまちにして滅ぼされてしまいました。神に近づくことが許されたのは神に選ばれた大祭司だけで、しかもそれは一年に一度だけのことでした。しかも大祭司にも罪があったので、彼が神の前に出る時にはまず、自分自身と家族のために、いけにえ、をささげなければならないという、念入りさが求められました。
けれども、今は違います。今は神の御子イエス様が、完全ないけにえ、として十字架で死んでくださり、私たちのすべての罪を贖ってくださったので、はばかることなく、大胆に神様に近づくことが、出来るようになりました。
(結論)私たちは、このような偉大な大祭司を持っているのです。それだから、私たちは自分の弱さの中に留まり続けるのではなく、そこから一歩踏み出して、神様に近づくことができるのです。ですから苦しい時は「神様、助けてください」と叫び求めるべきです。

2021年2月28日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月28日
説教題 「恐るな!元気を出せ!「安心せよ!」
  書  ヨハネによる福音書16章28~33節
(序論)今日の箇所は、イエス様が弟子たちに「今、語っている事柄は、弟子たちがつまずくことのないためであり、後に思い出すためだ。」と語られ、「しばらくすると、私を見なくなる」と言われ、いぶかる弟子たちに20節「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変わる」と語り、ご自分の死と復活を予告されました。
(本論)弟子たちは、主を信じると告白したのに、主は、彼らがご自分を見捨てて逃げ去ることを示し、しかし、「私が世に勝ったのだから勇敢であれ」と彼らを励まされました。力強い、慰めに満ちた言葉です。
1)平安を得るために  第一に、イエス様がこれらのことを語られたのは何のためかということです。それは、彼らがキリストにあって平安を得るためです。33節「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。」「これらのこと」とはどんなことでしょうか。それは、イエス様が、弟子たちに語られた全てのことです。これらのことを弟子たちに話されたのは、彼らが主にあって平安を持つためでした。そして、ご自分が十字架で死なれることと三日目によみがえられること、そして、聖霊として来られることの悲しみと喜びを、女性の出産のたとえで語られました。女性は、子を産むとき苦しみますが、子を生んでしまうと、一人の人が、世に生まれた喜びのために、その激しい痛みを、もう覚えていません。そのように、悲しみは喜びに変わります。人なるイエス様は、いつも弟子と一緒にいることが出来ませんが、天に昇られ聖霊が注がれると時間と空間の制約を超えて、いつでも、どこでも、全てのクリスチャンと一緒にいることが出来ます。私達は、今この恵みに与かり聖霊なる神さまと一緒に歩むことが出来るのです。ハレルヤ!
2)しかし、勇気を出しなさい  イエス様は、ご自分を裏切る弟子たちを受け入れ、彼らが戻って来ることが出来るように道を備えてくださったばかりでなく、彼らに勝利の力も与えてくださいました。ここには、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。」とあります。この言葉は、この世を生きるすべての人が聞かなければならないメッセージです。なぜなら、私たちは世にあっては苦難があるからです。「しかし」です。ここには、「しかし、勇気を出しなさい。」とあります。 この「しかし」という言葉はとても小さな言葉ですが、この言葉の中には、神の大いなる決意が込められています。イエス様は、私たちが「しかし」と言わなければならない現実があることをよく知っておられた上で、勇気を出しなさいと言われたのです。
(結論)イエス様は、私達の弱さをご存じの上で、私達が苦難に遭う時、「共にいるから、代わって戦うから」「勇気を出しなさい」と言われます。

2021年2月21日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月21日
説教題 「重荷・降ろそう・贈り物」
  書  マタイによる福音書112830
(序論)「休むことが出来ない」これは、現代の私たちにとって、最も切実な問題の一つです。以前から今でも「過労死」ということが重大な問題として取り上げられています。「休むことが出来ない」という問題は、時に私たちの命にも関わるものともなります。外国語にはもともと「過労死」に相当する言葉がなかったので、海外では日本語表記で「KAROSHI」という言葉が使われるようになりました。
(本論)《疲れた者》の「疲れる」という語は、もともとギリシャ語では、「苦労して働いた結果として疲れる」という意味をもっているようです。それぞれが、職場で、家庭で、さまざまな場で、懸命に働いてその結果として疲れている。そしてその心と体の疲れを、なかなかとることが出来ないでいる、という現状があります。
1)重 荷  「休むことができない」ということを、別の言葉で表現すると、「重荷を負っている」となります。今日の言葉でも、《重荷を負う者》という言葉がありました。私たちは日々の生活の中でさまざまな重荷を負っているゆえ、「休むことができない」。 「重荷を負う」ということで言いますと、私たちは外から「重荷を負わせられている」部分と、自分で自分に「重荷を負わせている」部分の両面があります。やらねばならない仕事を幾つも課されているとしたら、それは外から「重荷を負わせられている」ということになります。同時に、そのやらねばならない仕事のことを思って、心をどんどんと重くしているとしたら、自分で自分に「重荷を負わせてしまっている」ということになります。
 私達には、罪、恐れ、心労、悔恨、死の恐れ、という重荷があります。イエス様は「重荷を負うて苦労している者、来なさい。休ませてあげよう」と約束しておられます。贈り物は、ただで頂くものです。主が喜んで与えてくださるものを、喜んで受けましょう。借りたり、買い取ったりするのでなく、もったいない贈り物として感していただけばよいのです。
 
2)安 息  第一コリント1013節《あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはない。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます》。
ここでは、神さまが私たちに《逃れる道》をも備えていてくださっていることが語られています。言い方を換えれば、「逃げ道」です。立ち向かう、のではなく、逃げる道を神様は、私たちに備えていてくださっている、と語られています。
(結論)イエス様は、「私のところに来なさい。休ませてあげよう。」イエス様は安息をお与えになります。試してみましょう。イエス様以外の希望はみな捨てて神様の言葉を信じ信頼し、御許に行きましょう。安息があなたのものになります。

2021年2月14日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月14日
説教題 「災いではなく、平安・将来・希望」
  書  エレミヤ書29章11節
(序論)この章は、エレミヤが、バビロンに連れ去られた人々に手紙を書いて、彼らを励まし、教えさとしたことが記されています。
(本論)エレミヤは、捕囚の地では、家を建て、畑を作り、結婚して子を産み、そこで増えよ、減ってはならない、と勧めました。そしてこのように預言しています。
「主は言われる。70年の時が満ちると、わたしは彼らをこの所に帰らせる。それは災いではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。その時、わたしに呼ばわると、わたしはあなた方の祈りを聞く。私を尋ね求めるなら、わたしが、あなた方に会う。と主は言われる。」、と。1114節)
1)主の栄光をあらわす使命  主は、捕囚の地で家庭を持ち、仕事に励みその町の繁栄を祈れと語られました。(5-8節) 捕囚の民にすれば、約束の地に帰ることを待ち望むべきなのに異邦の地に落ち着くなどとは、まして憎むべき敵のまちのために祈るなど、とても出来ることではない、と考えるのが当然です。しかし、主は70年後の帰国を予告しながらも、そこに落ち着いて生活するべきことを命じられました。それは彼らが捕囚の地で、衰えることなくかえって力をつけることが出来るため、また、異邦の人々にも祝福を分け与えるためでした。私達の国籍は天にありますが、(ピリピ123) 一時的なこの地でも、家庭を築き、仕事に励み、世の人々に主の恵みを分け与え、主の栄光をあらわす使命があたえられています。
2)主のご計画、災いではなく、希望・将来  「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画は、わたしが知っている」と。 神様が知っていらっしゃるのであって「お前は知らない」と、言われます。 私たちには、分からないのです、明日どうなるのか。 でもその全てのこと、明日のことを知っておられる主が、おられるのです。そのご計画は「災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、将来を与え、希望を与えようとするものである」と。決して、私たちを失望落胆させることではなくて、神様の恵みの中に、神様の御業の中に私たちを、置いてくださるという、こんな素晴らしい神様の御思いなのです。
 しかし、この世での生活には、苦しみがあります。今は苦しみと思えることも、やがてそれは主のご計画の中で生かされ、より良い大きな祝福のもととなることが約束されています。
(結論)私たちの生活の、どの事をとっても神様によらないものは、何一つありません。神様が、私たちに抱いてくださるご計画は、いま事実、着々と行われています。そのことを信じて神様の備えられた、与えてくださった今という時、与えられた健康、与えられた時間を、与えられた財を、神様のものとして喜び感謝して、それを大いに活用させていただきましょう。